貯蔵庫

日記、ぶつける当てのないもやもやを置いておく場所

日記ブログ

あまり意識したことが無かったが、このブログは8年前から存在しているようだ。

飛んだり跳ねたり忘れたり、狂ったように書き続けてみたり、目を背けたりしながらも、私の20代はブログと共にあったようだ。
私は何のためにこの場を作ったのか、こうして文字を打っているのか、すっかり習慣になってしまっているが、改めて考えてみる。

本屋やブログで適当なエッセイに目を通すと、一つのささいな事象や誰かが言った言葉を持ち帰り、疑問を抱き、調べ、悩み、時には人と共有し、自分の中で飲み下したりして、それを糧として生きているようだ。

一方で私は外から入る刺激に反応こそすれど、その場しのぎを繰り返して生きてきている。自分の頭を使って考えて生きてる感じがしない。歳を重ねていくばかりで、何も成長を実感できていない。どこかの機能が欠落しているのかも、とさえ思う。ただ無編集で80年分流れていく私の人生を、椅子に座った私がぼーっと眺めているような感覚。決断や自分の意見を伝えることが苦手で、漂うようにのらりくらりと生きてきた。周囲の環境に恵まれていたのであろう。ここまで運よく、そうやって生きてこられてしまった。

唐突に、ハリボテのような、空洞な自分がのうのうと生きながらえていることが怖くなる瞬間がある。私はそんな時にブログを更新する。

日記は、確かに思い返すとこう思っていたな、という薄く遠い記憶を手繰り寄せて書いている。書いている時間だけはわーっと集中していて、時計の針がぐるぐる回る。それでも、自分の身に起こった以上のことが書けるほど頭の中は動かなくて、豊かでなくて。あくまで日記を書くにとどまっている。

日記を書くことでなにもない自分を否定したい。中身がミチミチに詰まった人間なんだぞ、私は文字を書くことで表現ができる側の人間なんだぞ、と自身を鼓舞するような気持ちで書き連ねている。

改めて考えてみると、そんな悲しい理由で更新を続けている気がする。

ただ、ブログをはじめてみてからわかったこともある。誰かに認めてもらえる・読んでもらえるということが、きもちがよいことであるということだ。共感なのだか憐みなのだかは把握する術がないが、ともかく私が闇雲に放り投げた石が、どこかの水面を揺らしたんだなと思える。ああ、これがインターネット。

私は、今日と昨日が入れ替わっても気付かずにアホみたいな顔で生きていくだろう。困ったことに、些細な事でも振り返って記録しておかないと、何があったのか思い出せない。何も成し得ていない真っ平らな腑抜けの生活の記録を眺めて、もし誰かが俺だけじゃないんだな、と思ってくれたのなら開設した意義があったというものだ。

妻にも言えないほど、赤裸々に私の生活を吐露しているのだから、今後はこの場を通じて友達ができたらいいよな、などと夢想する日々である。いずれはわたしも、自分の日記本を出すのだ。こっ恥ずかしいけれど、その際は遊びに来てくれよな。

 

特別お題「わたしがブログを書く理由